桑原悦子


桑原悦子

桑原悦子(くわばらえつこ 1952年生)
 [ミュージカル女優]


 中学生の頃にミュージカル女優に憧れを抱き、劇団四季入団を目指し始める。中学を卒業したのち、劇団四季のオーディションを受験するも、若すぎるという理由で不合格となる(通常であれば劇団四季の募集要項は高卒だが、この年の要項が何かしらの手違いで中卒となっていた)。その後、都立駒場高等学校に進学するが、芝居がしたい一心で劇団四季の主宰者である浅利慶太に直談判し、異例の採用で劇団四季の研究生となった。その年の進級試験では、80人の受験者中20人が落ちる中、わずか15歳だった彼女は2位で合格した。

 劇団四季研究所卒業後、1969年12月に『青い鳥』ミチル役で初舞台を踏む。この頃、痴情のもつれから自殺未遂を図っている。1971年、劇団員に昇格。翌1972年、第9回ニッセイ名作劇場『どうぶつ会議』で主役のネコに抜擢されて以来、浅利慶太に三田和代や斉藤昭子につづく次世代のホープとして扱われた。1973年6月公演ではアヌイ作『ひばり』のジャンヌ・ダルク役が予定されていたが、1973年1月21日、突如ガス自殺を図り命を絶った。

 劇団の主宰者である浅利慶太は女性関係の華やかさでも知られ、劇団員の女優を愛人にしてきたことは有名であり、桑原も浅利とは愛人関係にあった。桑原の死の前日、浅利は劇団内のことで桑原を怒鳴りつけ、桑原はそのまま泣いて帰り、浅利が桑原のために借りていたマンションの一室で、睡眠薬を飲みガス栓を開けて自殺した(推定死亡時刻20日午後2時)。死体が発見されたとき部屋にはガスが充満、パジャマを着た桑原はベッドの脇で腕をねじるようにしてこと切れていた。すでに硬直が始まっていたという。日頃から浅利に対してはなにかと批判的な作家の飯沢匡は、「それにしても…浅利は演出もヘタだが、女の扱い方もヘタですねぇ」と皮肉を述べている。

 1973年1月21日死去(享年20)


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