ブライアン・トラックスラー


ブライアン・トラックスラー

ブライアン・リー・トラックスラー(Brian Lee Traxler 1967年9月26日生)
 [アメリカ・プロ野球選手]


 イリノイ州出身。ニューオリンズ大学から、1988年のMLBドラフト16巡目でロサンゼルス・ドジャースに指名され契約し、1990年4月24日の対セントルイス・カージナルス戦でエディ・マレーの代打として出場しメジャーデビュー。結果はボブ・テュークスベリーの前に空振り三振であった。アメリカでのキャリアはマイナーリーグ暮らしが長かったが、メジャーでの11打席で唯一の安打を放ったのが当時ニューヨーク・メッツの大エースであったデービッド・コーンであったのが本人の自慢話となっていた。しかし、当時のドジャースには同じ一塁手にエリック・キャロスら有望選手が多く、再びマイナー暮らしに逆戻りとなった。

 1994年、当時ドジャースと友好関係を築こうとしていた福岡ダイエーホークスに入団。ダイエー球団ではなく、ダイエー本社海外部が2年契約で獲得した。新興球団であるダイエー(南海球団の買収および近畿から九州への本拠地移転から7年目)に対する伝統あるドジャース(創立111年目)側の態度は悪く、後日訪問した巨人や中日のキャンプ地では熱心な技術指導まで行ったのに対して、ダイエーのキャンプ地は短時間視察を行ったのみであり、友好関係は程なく消滅した。前半戦は、よく似た体型ながら1993年にフィラデルフィア・フィリーズをワールドシリーズへ導く働きを見せた一塁手のジョン・クラックを髣髴とさせるパワーと巧打ぶりを発揮し、クラック同様に主砲・秋山幸二の前を打つ3番打者としてなかなかの働きを見せた。守備範囲は狭いもののグラブ捌きも悪くなく、175cmと小柄ながら100kg近い体型もあって「コロコロちゃん」の愛称で親しまれた。後半戦は弱点を突かれ、凡打に終わることが多くなり成績も急降下。チームもAクラス入りを逃した。なお、前半戦での活躍に気をよくしたダイエー本社海外部が本塁打に出来高払いを付けるという裏契約を持ちかけたため、後半戦では本来の持ち味である巧打が影を潜めて本塁打狙いの凡打が増えてしまった、という報道がシーズン終了後にされた。

 ビール好きで知られ、ビールをジョッキで何杯も飲み干す様子が報じられていた。一度にビール1ダース飲むことが知られており、自室のベッドはビールケースであった。テキサス育ちであることから、常にカウボーイハットを被っていた。試合前にカウボーイスタイルで登場し、輪投げのパフォーマンスを披露するなどしてファンの心をつかみ、打席に入る際には福岡ドームのホークスビジョンには、トラックスラーがカウボーイ姿で敵を懲らしめるアニメーションが流れた。ダイエーは主力選手をモチーフとした博多人形を売り出したが、トラックスラーを模した博多人形は当時の売り上げ1位であった。

 1995年はケビン・ミッチェル獲得により、1994年にプレーしていたケビン・ライマー又はトラックスラーのどちらかが解雇されることになった。当時のチーム事情からトラックスラーを解雇することが決定的であったが、トラックスラーはダイエー本社海外事業部のお墨付きで獲得した選手であったことから、簡単に解雇することができなかった。結局、トラックスラーは春季キャンプ中に解雇されたが、これによってダイエー本社とミッチェルとの関係にヒビが入り、その処遇にあたって悪影響を及ぼすものとなった。ライマーも満足な成績を残すことなく1995年限りで解雇。

 帰国後、マイナーリーグや中華職棒の和信ホエールズでプレーを続けた。現役引退後はドジャース傘下のマイナーチームで打撃コーチを務めた。福岡放送のホークス応援特番で元気に後進を指導する様子を見せ、第二の野球人生を順調に歩んでいる様子であったが、2004年11月19日、アメリカテキサス州サンアントニオで急死。37歳の若さであった。アルコール中毒による肝硬変が死因とされ、好きな酒が寿命を縮めることになった。

 2004年11月19日死去(享年37)


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