宇留木浩


宇留木浩

宇留木浩(うるきひろし 1903年8月27日生)
 [俳優/映画監督]


 東京生まれ。父は弁護士、2歳下の妹は新劇から映画女優となった細川ちか子である。当時の私立エリート校・芝区芝公園の正則中学校在学中、不良仲間の江川宇礼雄と知り合い、1920年に横浜の大正活動映画(大活)の俳優となった江川の影響で、映画界に入るべく、同校卒業後、進学せずに1921年、17歳のときに日活向島撮影所に入社、撮影助手となる。まもなく江川のいる大活に移籍、撮影助手を続ける。同年夏、大活の撮影所を借りて撮影された映画『真夏の夜の夢』で俳優としてデビューした山本嘉次郎と知り合う。以来長いつきあいが始まる。同社の撮影所閉鎖で江川は獏与太平や内田吐夢、井上金太郎らと京都入りし、牧野省三の「牧野教育映画製作所」の設立に参加するが、宇留木は山本が1922年2月、東京に設立した「無名映画協会」に撮影技師として参加した。同協会は『ある日の熊さん』、『未来の大名優』の短篇2本を撮って解散した。このころまだ宇留木は19歳である。

 1923年、山本が京都の小笠原プロダクションで『愛の導き』に出演し、翌1924年、早川プロダクション製作の『熱火の十字球』の監督に山本が抜擢されると、宇留木はその監督助手をつとめた。同年秋、大活で俳優だった井上が監督として活躍している、西宮市甲陽園の東亜キネマ甲陽撮影所に入社し、平田が監督する『断雲』の監督助手となった。1925年、山本とともに東京に戻り、高松豊次郎率いる「高松豊次郎プロダクション吾嬬撮影所」に入り、同撮影所でマキノ・プロダクション製作の『輝ける扉』を山本が監督、宇留木は助手についた。引き続きマキノ製作の近藤伊与吉主演作『男児一諾』で、主演兼監督の山本の共同監督として、22歳の宇留木が監督デビューした。宇留木の昔仲間の江川も出演している同作は、翌1926年1月22日、浅草「大東京」で公開された。同年監督として一本立ちし、近藤主演の『港の謙吉』、国枝史郎原作、佐久間八郎主演の『銅銭会事変』を監督する一方で、監督と役者の境目のない同社の社風から、役者の近藤と長崎武が共同監督した『楠公の唄』に主演、俳優としてデビュー、引き続き友成用三監督の山本の主演作『陽炎の舞』に江川とともに出演する。同社では江川も1本監督している。

 1927年、松竹蒲田撮影所の俳優森野五郎と日活大将軍撮影所の俳優だった片岡松燕がそれぞれ独立して設立したプロダクションの合同製作で、『恋の四千両』を監督、引き続き『狂恋魔刃』を片岡松燕プロダクションで監督するが、先に京都の日活大将軍に入社した山本を頼って、宇留木も同撮影所に入った。同撮影所では書いた脚本は映画化にまで至らず、太秦への移転にともなって異動した1930年から、『怪盗夜叉王』をはじめとする映画化脚本を数本書く。当時の同撮影所長・池永浩久の命令で俳優に転向、木藤茂監督の『彼女への飛来』に主演する。以降、専業俳優となり、山本の監督作にも出演した。1934年の日活現代劇部の多摩川撮影所への移転にともない、多摩川に異動になる。

 1935年、前年に東京・砧のP.C.L.映画製作所に移った山本を追い、宇留木は山本が監督をする夏目漱石原作の映画『坊つちやん』の主役試験に合格、この1作で宇留木はスターとなった。以降同年中に、山本や成瀬巳喜男、木村荘十二、矢倉茂雄らの監督作に7本出演した。山本がPCL入りした年に、妹の細川ちか子も舞台女優から転身して同社に入社しており、木村監督の『三色旗ビルディング』などで「兄妹共演」をしている。1936年も5本に出演し、同年8月21日には歌手の藤山一郎主演、矢倉監督の『大洋の寵児』が「日本劇場」ほかで公開になった。映画公開の同日、浅草の「花月劇場」で宇留木主演の舞台版『坊つちゃん』が開幕になり、27日に千秋楽を迎えた。この日は宇留木の33歳の誕生日であったが、終演後の夜、迎えに来た妻と浅草公園六区のてんぷら屋での食事後、突然の狭心症に倒れる。その夜も明けぬ同年28日午前1時に死去した。

 1936年8月28日死去(享年33)


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