悪麗之助


悪麗之助

悪麗之助(あくれいのすけ 本名:金田茂男 1902年11月25日生)
 [脚本家/映画監督]


 大阪府生まれ。マキノ映画製作所等持院撮影所の牧野省三に抜擢され、1924年、金森万象監督、横山運平主演の『超現代人』で脚本家として22歳にしてデビュー、同作は同年4月11日に公開された。東亜キネマとの合併後の「等持院撮影所」でひきつづき、仁科熊彦や後藤秋声の作品の脚本を書いて、帝国キネマの小阪撮影所に転じた。マキノでの最後の『戦国時代』三部作は「陸大蔵」名義となった。1925年、添田唖蝉坊系アナキストで「浅草オペラ」出身の古海卓二監督と意気投合、3本の脚本を提供。同年6月25日に公開された尾上紋十郎主演の『崇禅寺馬場 前篇』で「竜造寺淳平」名義で映画監督としてデビューする。翌月の7月13日に公開されたおなじく紋十郎主演の『長脇差』は「悪麗之助」名義でクレジットされた。当時の帝キネ小阪の経営上の内紛で撮影所が閉鎖されると、ふたたび牧野のいる「等持院撮影所」に戻り、監督作『追はれ行く人』を発表する。まもなく牧野が等持院を離れ再度独立するが、悪は等持院に残った。

 1926年、阪東妻三郎プロダクションに招かれ、阪東妻三郎主演、伊藤大輔脚本の『無明地獄』を「陸大蔵」名義で撮る。つづいて寿々喜多呂九平原作・脚本の『蜘蛛』を「悪麗之助」名義で撮る。山上伊太郎とならんで「鬼才」と称されるようになる。1927年の立花良介と阪妻による「阪妻・立花・ユニヴァーサル連合映画」で、衣笠貞之助の『狂つた一頁』の脚本に参加した沢田暁紅の原作・脚本による『狂乱星月夜』、寿々喜多原作・脚本の『閃影 前篇』を撮って、同社を飛び出す。大阪港パーク撮影所で『彼は復讐を忘れたか』を撮って、1928年初頭に東京へ飛び、河合映画町屋撮影所で『ふくろう組』を撮る。同年後半、「連合映画芸術家協会」を解散した直木三十五と月形龍之介が始めたツキガタ・プロタクションで、直木の推薦によりツキガタ・プロタクション同人となり、月形陽候(月形龍之介)主演の『敵討破れ傘』、『救ひを求むるもの』等の異色時代劇を撮った。翌1929年に同プロダクションが解散すると、市川右太衛門プロダクションで『野良犬』、『冷眼』を市川右太衛門主演で撮った。

 1930年、月形が入社した松竹下加茂撮影所に移籍、『弥藤太昇天』を皮切りに月形龍之介主演作を立て続けに監督するが、その間の時期に愛児を交通事故で失う。1931年3月6日公開の月形の主演作『紅蝙蝠 第一篇』を監督したのを最後に、肺結核が悪化し、再び脚本に専念する。井上金太郎、二川文太郎ら、かつて「マキノ映画製作所」に集った同世代の監督たちが下加茂におり、彼らの監督作のための脚本をつぎつぎに書いた。同年10月26日午前11時、肺結核により京都で死去した。駆けつけた友人たちを見回した直後に永眠した悪に、臨終に居合わせた月形龍之介は「悪のやつ、最後までパンをして逝きよった」と語った。没時の妻は『無明地獄』(1926年)で阪東妻三郎の相手役を演じた女優の鏡淳子である。

 1931年10月26日死去(享年28)


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