マリオ・ランツァ


マリオ・ランツァ

マリオ・ランツァ(Mario Lanza 本名:アルフレード・アーノルド・ココッツァ 1921年1月31日生)
 [アメリカ・歌手/俳優]


 ニュージャージー州生まれ。父の影響で、幼少の頃から音楽に興味を持ち、歌唱やステージに興味を抱いていた。既に1932年に舞台に出演し、1940年にはプライベートレコーディングを行なっている。クーセヴィツキーに推されオペラへの出演を果たし、歌手への道を歩み始めたばかりの1943年に招集されるものの、左目の視力が弱かったため戦場の第一線に呼ばれることは無く、慰問隊としてフランク・リュッサーのバラエティーショーにに加わった。この頃、既に体重は118sを越している。

 1945年に正式に除隊後、商業歌手として未熟だったランツァは、RCAレコードの専属歌手としてトレーニングを重ね、その後に長い付き合いとなったコロムビアアーティストマネージメントのオペラツアー部門の監督であり指揮者であるペーター・ヘルマン・アドラーと出会う。1945年10月にCBSラジオと契約し、「Great Moments in Music」に出演。この番組で、ランツァの全米における人気と知名度は確固たるものとなった。ランツァがステージ歌手として大きな成功を収めたのは、RCAが商業的に画策し、1947年7月から全米の中小都市で巡業を行ったロンドン、イーンドとの「ベルカント・トリオ」による全米ツアーであり、公演は全米各地で大きな成功を収めている。

 1947年8月28日に行われたハリウッド・ボウルでのコンサートの成功において、MGMの創業者であり、当時ハリウッドの大物プロデューサー、ルイス・B・メイヤーがランツァの才覚を認め、MGMのオーディションに招聘する。同年8月30日に行われたオーディションに合格し、ランツァは6本の映画出演に関する報酬とその歌唱力に対して総額約30万ドルを得た。1949年に公開された『真夜中のキス』は、ランツァがシンデレラ・ボーイを演じる他愛のない音楽劇だったが、MGMの宣伝力とランツァの人気に支えられ成功を収め、第2作の『ニューオリンズの美女』も続いて興行的に成功裏に終わった。劇中歌の「Be My Love」は現在でもランツァの代表的な曲として知られており、当時のシングル全米ミリオンセラーも記録している。ランツァの欧州と日本における知名度を確立したのは、1951年には制作されたエンリコ・カルーソーの伝記映画『歌劇王カルーソ』である。実在のカルーソーの評伝記からはかなりフィクション化されているものの、実際のランツァ像にも重ね写すことのできるシンプルなサクセスストーリーが幅広い層に好ましく受け止められた。

 翌1952年の、『Because You're Mine』でも劇中歌は最終的にミリオンセラーを記録し、イギリスではロイヤル・コマンド・パフォーマンスに招聘されるほどの評価を得たが、作品の内容は朝鮮戦争下の時勢をやや写しこんで企画構成されており、惰性的にランツァの歌唱力を引き出すためと、契約履行のために制作された感が強い。そして、本作はMGMにおける事実上の最後の主演出演作となり、この後ルイス・B・メイヤーの失脚とともにランツァはMGMのスターとしての座を失うことになる。MGMは次作となる皇太子の初恋の制作に取り掛かり始め、録音を先行させたが、既に体重の急激な変化による体調不良や、精神的な不安定により、度重なるリハーサルへのキャンセルを繰り返したランツァの挙動によって同作品の制作は一旦中止となる。MGMはランツァに対して損害金を求め、またその他のラジオ番組等への出演も差押えたため、ランツァは経済的にも精神的も窮地に立たされた。1953年には、収録した歌唱部分の音声のみを利用し解決することで双方は和議を図り、ランツァはMGMから自由契約となった。キャンセルに関しては、いずれも健康の自己管理に関して怠惰だったことが災いしており、晩年にまで続く暴飲暴食による体調不良は最終的に彼を若くして死に追いやった要因でもある。

 1957年5月、マリオ・ランツァは妻子と共にイタリアのローマへ移住する。映画に関しても興行的な成功を別にすればほぼ順調に進み、ヨーロッパでのコンサートツアツアーは成功裏に進んだ。しかし、予てからの健康上の問題は更に悪化し、静脈炎、高血圧、痛風などさまざまの不調が彼を苛んだ。移住後も食生活と飲酒の習慣を改善しなかったために、1959年4月には軽度の心臓発作で入院、療養中の8月にも二度の肺炎を併発した。同年10月7日、肺塞栓症のためローマの病院で亡くなったが、アルコールと薬物への過度な依存と当時流行していたトワイライトスリープという薄暮睡眠型のダイエットを強行していたこと等が影響していたと思われる。ランツァの墓はアメリカ、カリフォルニア州のカルバーシティーにあるホーリー・クロス墓地にある。ランツァは1945年に戦友の妹、ベティ・ヒックスと入籍し4人の子供を儲けたがその3人は若くして亡くなっている。また。ベティも、ランツァがイタリアで客死した後失意のうちにアメリカへ帰国。翌1960年に薬物とアルコール依存症で亡くなった。

 1959年10月7日死去(享年38)


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